神威岬

夏の神威岬

神威岬は北海道の積丹半島北西部から日本海に突き出た高さ80mの岬です。

駐車場から岬の突端へは、遊歩道「チャレンカの小道」がありますが、

結構昇り降りがあります。

約20分くらい景観や積丹ブルーの海を眺めながら歩き、先端まで行くと、

水平線が何も妨げられることなく見渡せます。

丸みを帯びた水平線を見ると、地球は丸かったのだと実感できます。

熊本城の銀杏の木

熊本城は豊臣秀吉の家臣で、築城の名手といわれた加藤清正によって

造られました。

広大な敷地内には、天守閣や本丸御殿・二の丸・三の丸などがあり、

天守閣の最上階からは熊本市内や阿蘇の山並みを眺めることができます。

熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれます。
銀杏の木が各所にあって、中でも天守閣前の大銀杏は大きい。

築条当時本丸御殿のあった場所で、この銀杏の古木は加藤清正が築城を記念してお手植えになったと伝えられています。

清正が亡くなるときに、この銀杏の樹が天守閣と同じ高さになったときに何か異変が起こるであろうと予言し、それは奇しくも明治10年の西南戦争のときであったと言われているそうです。

西南戦争の際、天守閣や本丸御殿と共にこの銀杏の木も焼失しましたが、

焼け残った根元からでた脇芽が成長しました。

先日、とても綺麗に色づいていました。
ただ、実はならないとのことです。

 

 

 

宇治平等院と藤の花

京都府宇治市にある平等院です。

世界文化遺産に登録されており、

屋根に金色の鳳凰が飾られている鳳凰堂は国宝となっています。

平等院鳳凰堂のそばには大きな藤棚があり、

鮮やかな花を咲かせます。

5月のゴールデンウイークに行きましたが、

藤の花は上の方から咲いていくため、

そろそろ咲き終わりそうですね。

   

護王神社

護王神社は京都御所の西側の烏丸通に沿いに鎮座する神社です。
和気清麻呂公(わけのきよまろこう)をお祀りしています。

正確な創建年代は不詳ですが、護王神社は和気氏の創建による高雄山神護寺境内に作られた、和気清麻呂公をを祀った護王善神社に始まります。

和気清麻呂公は、宇佐八幡宮信託事件で、流刑に処せられながらも皇統を守った功績により、江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇より正一位護王大明神の神階神号を授けられました。

明治19年(1886)、明治天皇の勅命により、華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門(はまぐりごもん)前の現在地に社殿を造営し、神護寺境内からご遷座、後に姉君の和気広虫姫も主祭神として合わせ祀られています。

和気清麻呂が宇佐へ配流された際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われましたが、300頭のイノシシによって救われたとの伝説があり、境内にあるのは狛犬ではなく狛イノシシです。

イノシシ神社と呼ばれ、親しまれています。

小倉城

別名:勝山城、指月城

特徴:天守閣・・・「唐造りからづくりの天守」といわれる

小倉城は、戦国末期(1569年)、

中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。

その後、高橋鑑種たかはしあきたね毛利勝信もうりかつのぶが居城しました。

関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側についた細川忠興が、

豊前国に加増転封となり、1602年から約7年の歳月かけて築城しました。

忠興は、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施し、

外国貿易も盛んに行ったため、城下町は繁栄しました。

細川氏が肥後国熊本藩になった後、1632年から譜代大名の小笠原忠真が入城、

以後幕末まで続きました。

1837年に失火のため天守閣が焼失し、

残る城郭も1866年、

長州藩の反撃を受けた小倉藩が自ら城に火を放ち焼失しました。

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